『北の海』
今日は、井上靖の小説『北の海』について書きます。
氏の著名な作品である『しろばんば』の続編の位置づけです。
これは私が高校時代に出会い、大学の空手道部時代を通じて何度となく読み返した名作です。
主人公は洪作(島耕作ではありません。『しろばんば』の洪作です)。
彼が中学卒業後、浪人中(中卒で浪人とは現代では奇異に感じますが、当時は旧学制のため、よくあるケースのようです)に金沢にある旧制四高に行き、柔道部の夏稽古に参加するという話です。
彼はそこで様々な魅力的な人と出会い、柔道部に惹かれ、四高への入学を強く希望することになります。
長い小説ですが、その中の白眉と言えるシーンを紹介します。
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洪作は現役部員と共に夏稽古に参加しました。
夏稽古は数週間続きますが、その後半になるとケガや疲労で部員は弱ってきていました。
ある日の練習の終盤、部員が疲れ果てたころ、部内で試合が行われました。
非力で小柄な二年生と、体格もよく、入学前から柔道をやっている一年生のエースとの10本勝負です。
洪作は、一年生エースが簡単に勝ち切るだろうと見立てていました。
最初の3本は華麗な投げ技で一年生がポイントを取りましたが、その後息が切れてしまい、形勢が逆転します。
非力な二年生は粘り強い寝技でうんざりするほど時間をかけて相手を攻略し、結果として六対四で勝ちました。
その後、その二年生は洪作にこう語り掛けます。
「確かに10本勝負で勝ったけど、実際の試合では最初の一本で決まるから、負けている。
だから非力な自分が試合に出れることはない。きっとこれからも出られないだろう。
でも、ある一定の制約条件のもとでは、僕のように非力で小柄な者でも、勝てるようになる。柔道は面白い。
僕は毎日の稽古で、人の倍やろうと誓っている。そんなことでもしないと、僕などが柔道をやる意味はない。
相手に勝つんではなくて、自分に克つんだ。自分との闘いだ。
こうして話していると楽だろう。いつまでも休んでいたいだろう。でも、休みたい気持ちに克つんだ。
辛いが、立ち上がるんだ。」
といって、彼はまた強豪と目されている部員の前に行って稽古を所望した・・・
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私も大学時代、柔道ではないですが体育会のクラブでほぼ同様の経験をしていました。
非力で小柄な私にとって、極めて不利なフィールドでした(当時は体重別の大会はありませんでした)。
体格も力量も圧倒的な差のある先輩に対し、でも逃げずに前に出て突っ込んでいきました(もっとも、いざ道場に立つと逃げるという選択肢はありませんが)。
その時の、絶望的でありながら、しかし燃え上がるような気持ちの高ぶりを今もよく覚えています。
その時感じた気持ちの高ぶりは、実は社会人になってからもしばしば感じています。
クライアントとの大事な折衝の場で。支店長に融資稟議を説明する場で。役員会に起案する場で。
逃げ出したくなるようなシーンも何度もありましたが、それでも逃げずに立ち向かっていけたのは、あの頃の経験のお陰かな、と最近になって感じます。