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M先輩の思い出

お世話になっております。

多くの方から誕生日メッセージをいただきありがとうございました。深く感謝申し上げます。

お陰様で社会人20年になりました。学生時代はまったく考えもしなかった道を歩んでおりますが、それなりに毎日楽しく過ごしております。

これからも未確定の未来を自力で開拓して、もって社会に貢献する人生を歩んでまいりたいと思います。

20年ほど前、突然の、また痛恨の別れがありました(※色恋沙汰ではありません。それを期待されている方はこの時点で離脱ください。また、文章長めです)。

小職が属していた体育会空手道部は、概ね各年次で10人弱で構成されていました。小職の同期は6名で、標準的な人数です。

鉄の結束で4年間を乗り切りました。

大学規模に比してやや少なめの数字かもしれませんが、不人気スポーツであることに加え、やや個性的な組織(※非常に控えめな表現です。率直に言って、現代社会に残された最後の秘境といっても過言ではありません)のため、この程度に落ち着くのが通例でした。

しかるに、小職の一期上は、M先輩お一人でした。もともと入部者数も少なかったうえに、様々な事情があり退部が続いたため、小職が入部したときには4名にすぎず、1回生の終わりの時点で1名になっていました。

同期とは鉄の結束が結ばれる一方、先輩からはいじめられ、後輩をいじめ倒すという文化(※引退したら違います。また、いじめは先輩としての役割です。ホンマか?)のため、同期がいないのはかなりつらい環境でした。

M先輩は必ずしも体格・素質に恵まれたわけではなかったため、それぞれの期で一番強いのが選出される歴代の主将クラスと比較すると、力量的にはやや見劣りがありました。

しかしそのガッツと努力は大変尊敬できる方でした。

いつかの東京遠征で、小職はたまたま同じ部屋になったことがあります。その時テレビで流れていた当時流行していた岡本真夜のtomorrowの「涙の数だけ強くなれるよ」という部分を聞いて、M先輩が、「おいキヨシ、こんなん嘘ばっかりやぞ」と言いました。泣くほどの努力を重ねている先輩だからこそ、言える言葉です。

この組織においては、先輩後輩の間でいわゆる会話のキャッチボールというのはあり得ないので、「押忍」としか答えないのですが、その意とするところは何となくわかりました。

毎年3月に恐怖の春合宿というのがあります。

数年に一度、あまりのキツさに脱走事件が起きるという恐るべき合宿です。朝から晩まで過酷な練習に明け暮れます。

幹部と呼ばれる最上級生が輪番で前に立って練習をリードします。その間、他の幹部も一緒に練習しますが、変な話、多少は楽ができます。前に立つのが一番負担が重いので、同期で輪番で交代して回すのが通例でした。

M先輩お一人のため、我々の期に回ってくるのでないかと、思い戸惑っていましたが、合宿前に「俺全部やってみるわ。あかんくなったらお前らで頼むわ」と言われました。

後日談で、監督との間でどうするかのやり取りがあったやに聞きましたが、かなりの覚悟をされていたと考えます。

その和歌山県白浜で行われた合宿は、例年通り凄惨なものでした。

当然M先輩の負担も相当なものでした。しかしM先輩は最後までやり遂げました。明るく厳しく、最後までM先輩らしさを出した素晴らしい指導でした。いまだに目をつぶるとそのシーンが思い出されてきます。

合宿後、打ち上げを行いました。

最後にM先輩が立ち上がって話をされましたが、途中詰まりながら、タオルで涙を拭きながらの挨拶でした。後にも先にも、先輩の涙をみたのはその時だけです。確か、合宿前に指導をどうするかを監督と話し合った内容を話されたと記憶しています。春合宿のテーマは「限界への挑戦」ですが、まさにM先輩はそれを体現されました。

「人を尊敬できるというのは一種の才能である」と監督が話されました。まさにその通りです。心の底から尊敬できる先輩と、同じ時間を過ごすことができたのは人生最大の誇りです。

多くの試合をM先輩と出ました。

M先輩は主将だったので大将戦で出ます。相手も強いのが出てくるので、当然負けることもあります。

強豪私大との試合ではコテンパンにやられることもあります。でもM先輩の試合で、腰の引けたシーンは一度もありませんでした。体と体がぶつかり合うこの競技において、圧倒的な相手を前にして、それでも突っ込んでいくのは困難なことです。M先輩はその点でも本当に尊敬できる方でした。

我々の判断基準は、強い弱いではありません。強い弱いが重視されるこの世界で、別の確固たる判断基準を持つことができた我々は幸せです。

M先輩は勉強もしっかりされており、引退後は大学院に進まれました。

大学院に入ってから、夏休みにユーラシア大陸を貧乏旅行すると言って日本を発ったまま、消息不明・生死不明のまま20年が経ちました。

小職は卒業後に就職して東京に来ていたので、卒業後は顔を合わすことのないままの突然の別れでした。最後に交わした言葉は残念ながら覚えていません。

インド・ネパールのあたりで天災にあったのではないかと聞きましたが、詳細はわかっていません。一度新聞にも記事が出ました。

生死不明のため、いまだにOB名簿には「K大学大学院在学中」となっています。またコーチとして現役のママで記載されています。

「おうキヨシ、アジアは何かとおもろかったでー」と言って目の前に現れるのを期待していましたが、さすがに20年経った今、それは無理でしょう。

こんな文章を書くのも、もうお会いすることがないからです。

三好先輩、本当にありがとうございました。先輩のそのガッツは、いまだに、そしてこれからも私の心に生きていきます。押忍!!