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瀬古利彦

瀬古利彦。1980年代を代表するマラソン選手。

子供のころ、何度か彼のマラソンを見たことがある。

終盤まで集団にいて、最後の最後にラストスパートして、ライバルを振り切って優勝する姿が目に焼き付いている。

2時間も延々走り続けて「何が面白いねん」と思いながら見ていたのだが、彼は最後のラストスパートに懸けて、じーっと我慢し続けていたのだ。

その戦略にしびれた。

フルマラソンの実績は、15戦して10勝。

野球やサッカーのように1vs1で戦っての15戦10勝ではない。何百人と一緒に走って、一位になったのが15回中10回。

彼がいかに勝負強かったかがわかる、抜群の実績である。

しかし、数多くの栄光に輝いたマラソンランナーでありながら、彼の人生を紐解くと、多くの挫折を経験していることがわかる。

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①モスクワ不参加

東西冷戦の象徴的事案である。モスクワ開催のオリンピックに対し、西側諸国がボイコットしたという事件である。

スポーツの祭典であるオリンピックに、政治が介入するという極めて理不尽な事件であった。

瀬古は当時24歳。実力は世界最高峰であり、「出れば金メダル」と言われていた。旬の短いスポーツ選手にとって、このボイコットは痛恨だったろう。

同様の状況に置かれた選手に、柔道の山下泰裕がいる。

まだ若い、いかにも柔道選手という朴訥な彼が、涙ながらに参加を訴えるシーンが残っている。彼が、今なおJOCなどで人望を集めるのには、こういう背景があるからなのだろう。

②ロスでの惨敗

ロスでは調整に失敗。

優勝候補の筆頭に挙げられていながら、14位に終わった。

28歳という年齢は、今ではまだまだやれるという年齢だが、当時としては、天井は過ぎていたようにも思える。

疲労の取れないままに、練習をし過ぎたのが原因とも言われる。モスクワの件もあり、悲劇のヒーローとして囃したてたメディアも重圧になったのではないだろうか。

③恩師の死

瀬古が29歳のときに、恩師である中村が急逝。

それまで、練習から生活まですべて面倒を見ていた監督が急逝し、師事する人がいなくなった。

当時すでにスーパースターだった彼を指導する人が現れるべくもなく、これ以降はすべて自己管理することとなった。

相当に自律しないと、アスリートとしてやっていけなかっただろう。しかし彼は以後もマラソンで勝利を積み上げており、このピンチを克服できたようである。

④ソウル代表選考を巡る紛糾

当時の代表選考は、今のように制度が整っておらず、曖昧であった。

それが、悲劇のヒーロー化している瀬古を優遇しているように思われ、物議をかもした。

瀬古が悪いわけではないが、不名誉な話であった。

ソウルに出場したものの、9位に終わった。

15戦10勝のうち、優勝できなかったのは、最初期の2戦を除けば、オリンピックの2戦とボストンの1戦のみ。彼がいかにオリンピックに見放されたかがわかる。

⑤部員の事故死、陸上部の廃部

引退後、ヱスビー食品陸上部の監督をしていた。

合宿中に、有力選手2人を交通事故で失った。

師匠のみならず、弟子も失うという悲劇。

その20年以上のちであるが、ヱスビー食品陸上部が廃部。自分がお世話になった組織がなくなるのは、時代の流れとはいえ、悔しかったことだろう。

⑥長男の死

4人の息子がいるが、その長男は34歳で病気により亡くなった。

自分よりも息子が先に死ぬのは耐えられないことだったろう。

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今回の東京オリンピックは、その開催の是非の論議や、事後の談合事件の発覚など、多くの論点があった。

そのうちの一つに、マラソンが札幌開催に突然決まったということがあった。

瀬古は、日本陸連のメンバーとして抵抗したが、”合意なき決定”として受け入れざるを得ない状況になった。

マラソンの代表選手に会ったとき、

「瀬古さんのように、モスクワオリンピックのようにボイコットになるわけではないので僕らは幸せです。まだ札幌という地でマラソンができると言うことは、本当に瀬古さんたちと違って僕は幸せです」

と言われた。

瀬古は「それを聞いて本当に涙が出た」と語っている。

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モスクワ不参加は彼の人生にとって最大の挫折であったと思うし、もし出場して本当に彼が金メダルを取っていれば、真のヒーローとして良い人生を送ったかもしれない。

しかし、60歳を超えて、社会の理不尽な決定を選手に伝えるときに、「あなたも若いころに挫折したのだから、自分も頑張る」と言われるのは、あのときの金メダル以上の価値があるようにも思う。

大のおっさんが涙を流すのも、当然である。

モスクワのときに流した涙を越える喜びだったのではないだろうか。

苦労に苦労を重ねてきた彼ならではの景色が見えたと思う。

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東京オリンピックの代表選手との会話のエピソードは、今調べると、2019年11月。

コロナ前だったんだ。遥か昔に思える。

その時に強い感銘を受けて、エッセイを書こうと思いながら、すっかり忘れて今に至ってしまっていた。

今日、なぜか天啓のようにこのエピソードが思い出され、筆を執った。ご笑読ください。