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なぜ明治維新の時、京都ではなく江戸が首都になったのか②

●所見

ここまではwikiを取材元として書いてきたが、ここからは完全に私個人の意見である。

①から⑤まで、時の政府の要人の意見を書いてきた。いずれも理由として正解であり、すべて合わさっての意思決定だったんだろう。

問題は、何がもっとも根源的な理由だったのか、である。

おそらく、⑤の保守的な公家集団を切り離したかったからではないか、というのが私の意見である。

天皇の政治を補佐することを数百年やってきた公家集団は、王政復古という建前上、明治維新直後は相当上位の役割を担っていた。であるにもかかわらず、新政府を担うだけの人材を(三条実美、岩倉具視以外は)輩出できなかった。

また、「金で転ぶ」「威圧されるとすぐに折れる」などの通弊もあり、命をマトに修羅場をくぐってきた薩長の志士からすると、一緒に仕事をやれない、信用できないという気持ちもあったのだろう。

外国を打ち払う攘夷を旗印としてきたのに、突然手のひらを返して開国し、富国強兵に向かうという難しいかじ取りをしないといけなかった明治政府としては、海外事情もわからず保守的なことばかり言う公家集団を切り離したかったに違いない。

まず公家からの切り離しのための遷都ありきで、大阪か江戸を比較して、インフラの整備や都市人口の維持、人心の収攬を考えて、リスクを取って江戸を選択した。こんなところが真実のストーリーではないかと思料する。

(なお、東京遷都のときに公家も大部分が東京に移住させられた。なので、即座に公家集団から切り離せたわけではないが、反対意見を取り上げられなかったことが契機となって、公家社会は力を失っていったものと思われる。これは類推だが。)

●この論考を書いた理由

別に、私が歴史マニアの京都人で、東京遷都に納得がいかなかったからではない。

歴史は意思決定の積み重ねであるが、未来人である我々は、その意思決定がつい当然のものであると思ってしまうことが多い。

しかし真実はそうではないのだ。

東京遷都一つをとってみても、リスクの分析と評価を行い、それを十分把握したうえで、覚悟を持って意思決定したことがわかる。またリスクを極小化するための配慮のあともうかがえる。当時の政治家たちの名人芸だったのだろう。

意思決定のプロセスと理由をリサーチして、その意思決定を追体験したい。そして自分が何らかの意思決定をするときに、正確な意思決定ができるようなトレーニングにしたい。

それが本論考を書いた理由である。