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生き方上手2

細川藤孝(幽斎)は、足利・織田・豊臣・徳川という四代にわたる治乱興亡を生き抜いた戦国大名です。

彼のすごいところは、すべての時代において、一定のポジションを確保し、時の政権から一目置かれる立場に座り続けたことです。

そんな生き方上手な彼ですが、彼はその人生において、以下の三度、生きるか死ぬかの瀬戸際を経験しました。その人生の瀬戸際瀬戸際で、彼は武将としての力量を発揮しました。

彼が生き方上手として、四代にわたり生き残ってこられた原因は、こういうところにあろうかと思っています。

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・足利義昭が織田信長と反目したとき

彼が前半生を懸けて担いでいた足利義昭が、織田信長と反目したときは、彼にとって最もつらい瞬間だったことでしょう。

彼は信長に従うことを決断し、苗字を「長岡」に変えて、信長のもとにはせ参じました。

足利義昭から見れば「裏切り」ですが、彼をそういう人はいません。それも彼の人徳です。織田信長のほうが天下人にふさわしいと衆目の一致するところだったのでしょう。

・本能寺の変

古くからの盟友明智光秀は、織田軍団の中では上役にあたり、縁戚関係でもありました。領地も接しており、極めて近しい関係でした。

本能寺の変の直後、明智光秀から参戦の誘いがありましたが、彼は動きませんでした。そして剃髪し、「幽斎」と名乗って、信長を弔う姿勢を見せました。

この時も、相当な意思決定だったに違いありません。歴史にifは無用ですが、もし彼が明智光秀側についていれば、ひょっとすると彼は副将軍として明智幕府を開いていたかもしれません。

・関ヶ原の戦い

彼は東軍に属しました。京都府舞鶴市にある田辺城にこもって、寡勢でもって西軍の大軍を一手に引き受けました。

彼は50日に及ぶ籠城戦を耐え抜きました。最後、後陽成天皇の仲介で開城しましたが、武将としての力量を見せつけました(彼は古今集を伝授されており、後陽成天皇は、それが途絶えることを憂慮し、開城させました)。

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何度も切所を切り抜けるほどの決断力・武力を持ちつつも、歌道・茶道・蹴鞠などの文化にも精通していました。豊臣秀吉はじめ、多くの大名の歌道の師匠にもなりました。

おそらく、歌道などの文化面での才能は、彼にとってのコミュニケーションツールだったのだと思います。戦争がないならないなりに、彼は文化人として一定のレスペクトを得つつ、一生を終えたのだと思います。

生き方上手です。

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田辺城籠城のとき、攻め手の武将の中に、彼の歌道の弟子が複数おり、それが戦意が上がらなかった原因と言われています。

芸は身を助く。普段から、芸を身に着けて周囲の人と積極的にコミュニケーションを取り、恩を売っておくことが大事です。