走れメロス
激怒しました。
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「1939年、対独宥和策でナチスの台頭を招いたしまったチェンバレン内閣は、ナチスに対する最大の批判者でありながらも、当時は『時代遅れの政治家』と揶揄されていたチャーチルをあえて海軍相として呼び戻した。」
本日読んださる書籍の一節です。
ナチスに対する最大の批判者は、チェンバレン内閣?それともチャーチル?この文章からは読み取れません。修飾語が、どの言葉を修飾しているか読み取れない文章です。
こういう文章が嫌いです。編集者はちゃんとチェックしたのか。
カッコいい長い文章を書こうとすると、しばしばこうなります。こういう文章は、カッコよさはあきらめて、二文に分けるべきです。
例えば、「チャーチルは、当時ナチスに対する最大の批判者でありながらも、『時代遅れの政治家』と揶揄されていた。チェンバレン内閣は、そんなチャーチルをあえて海軍相として呼び戻した。」という感じです(ナチスに対する最大の批判者はチャーチルと仮定した場合です)。
修飾語が、どの言葉を修飾しているか読み取れないものの代表例は、シューベルトの名曲「美しき水車小屋の娘」です。美しいのは水車小屋なのか娘なのかわかりません。おそらく娘だと思いますが。
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今日FBで流れてきて笑ってしまったのが、某有名経営者の言葉『リーダーたる者は公平公正、無私、ロマン、使命感、この四つがないとダメです。それから最後は人間性ですね』です。
こんな総論賛成的な文章も嫌いです。こんなこと当たり前です。
こんな意見を聞かせられても、聞き手は具体的なアクションに移せません。聞くだけムダ、読むだけムダです。
おそらく、これを聞いた部下は思考停止状態だったでしょう(好意的に解釈すると、前後の文章には含蓄に富む話があったのを、ここだけ切り取って紹介されてしまったのかもしれません。そう思うようにしましょう)。
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恋愛小説や歴史小説でよく出てくる、「20年後にこの場で再会することを二人は知る由もなかった」という文章も嫌いです。
そんなことは当たり前です。伏線なんだと思いますが、もっとうまい伏線の置き方があるだろう、と思ってしまいます。
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また、「彼が多大な困難を乗り越えて、友人に会いにいった。友人は彼の顔を見た途端、感動して涙を流した」という文章もしばしば出てきます。『走れメロス』パターンです。
友人が、彼が困難を乗り越えた事実を知っていれば、感動するのは理解できます。しかし、その事実を知りえる立場でないにもかかわらず、勝手に感動していると描くのはいただけません。読者に対する感動の押し付けです。
『走れメロス』は、友人セリヌンティウスとメロスが互いにビンタをし合うという行為で、メロスの苦労を知るという工夫を施されており、感動の押し付けにはなっていません。むしろセリヌンティウス側の心模様まで描いていて、感動を増幅します。
さすが文豪です。
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ここまで書いた文章を読み直してみて、あまりの詰まらなさ・くだらなさ・脈絡のなさに、ひどく赤面しました。
(冒頭とラストを『走れメロス』にかけてみましたが、わかっていただけましたかね。私は赤面することはありますが、激怒することは滅多にありません。)